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源流の叫び……

2023/05/21
  • 食・農業・環境
源流の叫び……

堰さらいを終えた翌5月5日(金)。

現地に来るまでは、この日は早朝のうちに出発して、
久しぶりに浜通りを走ってみようと考えていた。
浪江から双葉、大熊、富岡と海岸線を走りながら、
震災遺構や伝承館を巡ってみよう、
時間があればイチエフ(福島第一原発)も・・・と、
そんな行程を描いていた。

しかしどうも帰りの渋滞がヤバい感じがしたのと、
会津から浜通りまでの距離を考えると、渋滞がなくても
かなりせわしなく走ることになる。

体も少々疲れたし、加えて、
前日の作業を終えた時点で、やっぱりここまで来たからには、
災害現場をこの目で確かめておきたいという思いも募った。

結局、方針を変えて、「堰と里山を守る会」が用意してくれた
災害現場視察に参加することにした。

 

朝9時半に早稲谷会館集合。
何台かの車に分乗し、主だった崩壊現場を回る。

遮断され、あるいは土砂に埋まってしまった状態では、
水路がどこにある(あった)のか分からないと思うので、
赤い線で示してみた。
がけ崩れや土石流の凄まじさが少しでも想像できたなら
いいのだけど、どうでしょう。

 

早稲谷川の上流部にある取水口(丸い枠の部分)。
破壊され、水路も完全に埋まってしまっている。

 

以前にコンクリで修復した水路も、木っ端みじん状態。
どれだけの土石が、どんな勢いでなだれ込んできたか・・・
想像すればするほど、人為と自然の力の差を感じざるを得ない。

 

かつては鬱蒼とした森林だったところが、
大木がなぎ倒されて陽が入り、明るくなっていた。

(水路は赤線の地下です。)

もはやここに水路が通っていたことすら想像できない。

これを「原状復帰」させるには、
重機やダンプが入れる道をつくることから始めなければならない。
とても2億数千万円では済まないのではないか。
ましてや3年で元に戻すのは不可能に近いのではないか。。。。
大友さんや浅見さんの説明を聞きながら、
ただただ溜息で応えるばかり。

仮復旧のプランでは、可能な範囲を送水管でつなぎ、
ポンプアップで水を揚げられる所は揚げ、
使える田んぼをできるだけ多く確保する計画である。
あとは人力で沢から引くか、天水を溜めるか・・

いずれにせよ僕らとしては、使える水路の補修を手伝ったのみ。
あとは「田植えの結果」報告を待つしかない。

「頑張ってくれ」なんて軽々しくて言えないけれど、
出来たコメは引き受けよう。 その約束だけはしておきたい。

 

なだれの山を眺めながら、こんな空想も浮かんだりした。

もしもこのまま放置されたなら、
やがて倒木の上をさらに土砂が覆うようになり、低木が生え、
再び大木の森へと遷移していくのだろう。

そして何世紀かあるいはもっと先、
水路が露出するほどの大災害が起きたとして、
その時まだヒトが生き残っていたら、
「人新世」の地層から出現した水路らしき跡に、
人類の末裔たちはどんな感嘆の声を上げることだろう。

「こんな場所に人の暮らしの跡があるとは・・」
あるいはこんなふうか。
「古文書に書いてあった『堰』とはこのことか・・」
「この時、何が起きたのか。なぜこの水路は放棄されたのか・・」

そしてもし堰の全容を発掘できたなら、こう驚くのだ。
「なんというエコな技術だ!(なぜ見捨てたのか)」と-
今ふうの表現ですが・・。

 

自然災害の規模は年々大きくなるばかりだが、
いつのときも雨水災害の源は上流から始まる。

270余年にわたって営々と守られてきた水路が、
一瞬にして無残な形で切断された、
それだけ激烈な豪雨だったいうとこでもあるが、
上流の営みを見捨ててきたツケが、このような形になって
現れてきているのではないか、
たとえその因果は証明できなくても、
そういう視点は持っておくことが大事だとは思うのである。
暮らしの源を忘れないためにも。
いつか、突然、鉄砲水に押し流されてしまわないためにも。

 

帰りは、
初参加のベジアナこと農業ジャーナリスト・小谷あゆみさん
会津若松駅まで送って、そこから一人旅。

激しい渋滞にイラつきながら、
点・滅するブレーキランプの長蛇の列に向かって、
上流の叫びを木霊(こだま)させてみたい、
そんな衝動にかられた。

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